『ロミオとジュリエット』
新たな神話へ向けて
藤原央登氏しあわせ学級崩壊の作品は3本観ている。この世における若者ならではの悩みや生きづらさを、宗教的なテーゼを大枠にして、普遍的なものとして捉えようとする。その意志がこの集団には感じられる。
『憂憂憂憂憂憂憂憂憂憂(((((脱/神的)))))→→→→→ファズる←←←←←(((((17歳の、。)))))憂憂憂憂憂憂憂憂憂憂』(2017年3月、nagomix渋谷)といういささかトリッキーな題の作品で、初めてこの集団の世界に触れた。これは、7日間で世界が造られた創世記が下地になっている。日が経つにつれ強欲、傲慢、怠惰、嫉妬などの人間的な感情を備えた末に、「大淫婦」になるまでの少女を描いた作品だ。少女は産まれてしまったことで生じる原罪を抱いている。しかし、腹に宿した新たな生に、方舟に乗って新たな世界へ船出することに似たかすかな希望も抱いている。絶望と希望のダブルバインドに、生きることの逡巡が看て取れた。一人の少女の16歳、17歳、18歳を、3人の女優が聖書を思わせる台詞を滔々と述べて一人芝居のように語る。語られる内容が微妙に異なりながらも、カノンのように同期するように仕立てることで、不特定の少女=人間を立ち上がらせようとしていたように感じた。舞台空間であるライブハウスでは、作・演出の僻みひなたによる生演奏による音が終始鳴り響いていた。台詞も音楽のように割り当てているような構成で、演劇の創り方そのものが印象的な作品だった。
『非国民的演劇』(2018年1月、花まる学習会王子小劇場)では、生きづらさが巨大な家族共同体としての日本へと拡大した。家族共同体としての日本なのにもかかわらず、人を蔑んだり殺人が日々起こっている。どこまで親密であっても共同体では不寛容さが生じる。そのことがいつまでも解消されず懊悩する人間の様態が、輪廻転生のように果てしなくループする劇内容から感得される。生の苦悩が未解決な状況の突端に生きているのが我々だ。嫌になるような共同体の問題に煩悶しながらも、より良い転生に期待を込めて自らを投機しようとする人間が最後には描かれる。この作品でもダンスミュージックのライブ演奏があり、それをバックにマイクを通して神学的な台詞が語られる。希望と絶望の狭間を生きざるを得ない人間の姿がじんわりと浮かび上がった。
最新作『ロミオとジュリエット』(2018年9月、BASS ON TOP 中野店ほか)では、1時間で同作品を上演した。僻みの生演奏が爆音で鳴り響く小さな音楽スタジオ。VRゴーグルを付けて小さな人形を手にした4人の俳優が、マイクを通して台詞を語る。その様を、観客は思い思いの場所でスタンディングで観劇する。たった5日間の世界である『ロミオとジュリエット』を1時間で上演することは、原作の疾走感に相応しい。音楽で台詞は多々かき消される。しかし目的は、このあっという間の物語自体を、音楽の陶酔感によって観客に体感させることが目的だったのであろう。中屋敷法仁による「女体シェイクスピア」を思わせるスピード感溢れる舞台展開によって、空間全体をグルーブの渦に没入させようとする意図を感じた。それでも、VRゴーグルを付けてバーチャルリアリティに投入している(という演出)俳優と、私は距離感を感じさせられた。そのため、私自身はこの劇世界に浸ることはできなかったが、マイクを通して滔々と台詞を語る俳優の姿は、祈りをささげているような印象を受け、聖性を志向する集団の特徴はこの作品でも認められはした。
三作品観た限りでは、神話・聖性を志向する集団の作風は一貫しており、はっきりと打ち出されている。集団の特徴や武器を明らかにすることは重要だ。問題は、そこで語られることが若者だけではなく「誰もが」切実に感得できる作品を創り上げられるかだ。その時、彼らの作品はまた別の神話へと昇華されることだろう。
(2019/01執筆)