『卒業制作』
『卒業制作』は、しあわせ学級崩壊にとってひとつの到達点であり、かつ通過点だと思っている。
園田喬し氏『卒業制作』は、しあわせ学級崩壊にとってひとつの到達点であり、かつ通過点だと思っている。僕自身、過去作全てを観劇した訳ではないが、観る度に異なるアプローチに挑み、果敢に「実験」を繰り返してきた印象があるのだ。それらを経て得た経験値を、この『卒業制作』へ投入した集大成的一作だと捉えている。
劇場内に入ると、中央には金網のような柵で被われたステージがあり、客席はその両サイドに設置されている。ステージ真横のDJブースには主宰の僻みひなたが陣取り、上演中の演奏を行う。クラブにおけるDJ、オーケストラピットにおける指揮者のような存在だが、僻みは演出家でもあるので、その役割はより重大だ(公演資料には脚本・演出・演奏と表記)。本編上演中は爆音でエレクトロ系のダンスミュージックが流れ、場内の雰囲気はクラブに近い。ただ、客席があるので、安心して観劇に集中することができる。「スタンディングで身体を揺らしながら観たい」という意見も、「座ってじっくり観たい」という意見もあるだろう。その二面性を持つ作品と言える。何しろ「音量が心配な方にはロビーにて耳栓を配布しております」とアナウンスされるほど、大音量のダンスミュージックなのだ。
上演が始まると、俳優たちは台詞を喋り出すのだが、その表現方法はシーンによって異なる。マイクを使うパターンと地声のパターン。音楽のリズムに乗ってラップ調に喋るパターンと、無音で会話するパターン。モノローグは詩的でリズミカル、何度も聞くと癖になるキャッチーさがある。ダイアローグは、高校生を中心とした物語だったこともあり、感情的な短文口語が高速で交わされる。これは余談だが、ダイアローグで語られる台詞を一言に圧縮すると「日常ウザい」みたいな内容で、その描き方が僕には新鮮だった。ある種ニコニコ動画におけるテロップ機能のような側面があるのかもしれない。煽りと言うか、ツッコミと言うか。
改めて思うことは、今作が圧倒的に「音楽」である、ということ。音楽的アプローチから演劇を再構築していることは確かだが、どちら寄りか? と問われたら、僕は「演劇寄りの音楽」と答える。主体は、そしてスタイルは、圧倒的に音楽なのだ。ここで確立した上演スタイルはカンパニーにとってひとつの発明だろう。マイクパフォーマンス的台詞、演出家によるDJプレイ、クラブの雰囲気、等々。ひとつひとつの要素は目新しいものではないが、それらを組み合わせ、演劇寄りの音楽として「演奏」する。それが最大の特徴であり、それこそが観客を熱狂させる。
物語の中心には、一人の男性教師と数人の女子高生がいる。悲恋率高めの恋心や思春期の憂鬱が描かれ、決して明るくも幸福でもないのだが、そこに「卒業」というテーマが大きく関係してくる。卒業とは別れと旅立ちが連続するセレモニーだ。旅立ちには未来が伴い、作品が意図するテーマも、おそらくそこだと考えている。出演俳優たちは全員良かったが、その中でも小島明之と福井夏の二名は別格だった(配役上も重要な二役)。小島は、教え子への恋情に苦悩しながら、彼女へ想いの言葉をかけ続ける男性教師「ヒダウツツ」役を、福井は、ヒダとの純愛を大切にしつつ、同時に心の奥底でヒダへの想いを断ち切る必要性を理解している女子高生「キリシマカナデ」役を、それぞれ好演した。この二人がプロレスのマイクパフォーマンスさながらに互いの純愛を伝え合うのだが、この掛け合いが、とても心に残っている。今作がダウナー色に染まりすぎない要因は、二人のピュアな存在感が大きい。いま原稿を書きながらも、真っ先に浮かぶのは小島と福井の声、そして表情だ。今作に再演の機会があるのなら、小島明之と福井夏の出演を熱望する。
しあわせ学級崩壊は、この『卒業制作』でひとつ評価を上げただろうし、少なくとも僕の評価は上昇した。過去作それぞれを「点」とすると、点と点が繋がり「線」となり、その線が繋がり「立体」になるような、それ程までスケールの異なる一作だ。しかし、その成功にしがみつくことなく、カンパニーは更なる実験を繰り返し、新たな作品を生み出している。そういったアグレッシブさが、何とも頼もしい。彼らと僕の出会いは数年前で、その詳細は省くが、当時記した言葉でこの拙稿を締めたい。『外部の評価を恐れず、このまま突き進むべき。しあわせ学級崩壊にしか表現できない演劇が必ずあるはずだ』。
(2019/07執筆)