Review

ハムレット

しあわせ学級崩壊の『ハムレット』

奥景子氏

しあわせ学級崩壊の『ハムレット』を鑑賞してきた。同劇団による公演を観るのは、前回の『ロミオとジュリエット』に続き2度目となる。今回も、リハーサルスタジオやライブハウスで、EDMを爆音で流しながら、俳優たちがマイクを手にラップ調で台詞を語るという独自のスタイルは健在である。肌で振動を感じるほどの大音量の中、4人の俳優たちは観客の間を動き回り、汗だくになって、ときに唾をも飛ばしながら、歌うように、叫ぶように、すさまじい熱量で演技をする。一方で、観客も自由に場内を移動し、好きな距離、好きな角度からパフォーマンスを楽しめるというのがクラブ的で面白い。また、演出の僻みひなたが演奏も兼ねており、さながらフロアを沸かせるDJのようである。ハムレット役の田中健介がガートルード・オフィーリア役の大田彩寧に激しく詰め寄る場面、その構図が大胆にも逆転する場面は見所となっている。それに引けを取らないクローディアス・ホレイショー役の福井夏、ポローニアス・レイアーティーズ役の林揚羽の熱演も見事である。初めて見聞きする人は、間近で繰り広げられる迫力ある演技と演奏に圧倒されることであろう。

ここでさらに興味深いのは、福田恆存の訳をもとにしている点である。最近のシェイクスピア上演では、比較的新しい小田島雄志、松岡和子らの訳が主流となってきており、福田訳が使用されることは珍しい。なぜ今、福田なのか。実際に観劇してみて、ひとつの答えが得られたように思う。なるほど、ダンスミュージックとともに聞く福田の言葉は、たしかに調子が良く、格調が高い。何とも不思議な親和性がある。小劇場ならではだが、終演後、まだブースにいた僻みにも疑問をぶつけてみた。彼によれば、数ある既訳を読み比べてみた中で福田役が一番リズミカルだったのでそれでやりたかった、とのことである。

かつて福田は、外遊中にイギリスで本国のシェイクスピアに触れ、それを自国でやるには先行する坪内逍遙の訳ではままならないとし、日本の演劇、言語の改良を目指して自らも翻訳に着手した。福田による新訳は、かつてないスピード感で当時の演劇界に衝撃を与えた。現代での評価は賛否両論であるものの、彼が後世に及ぼした影響、演劇史に残した功績は大きい。そんな福田だが、「翻譯論」において、詩の外国語への翻訳は原則として不可能であることを主張している。曰く、英語には英語の、日本語には日本語の固有のリズムがあるため、完全に書き換えることはできないという。しかし、どうにかシェイクスピアの英語が持つ躍動感を日本語ならではの律で再現しようと試みたのが福田の訳だった。そこに音楽性を見出し、さらにEDMとラップで表現しようというこの劇団の活動は、意外なようで理に適っているのかもしれない。

最後に、「シェイクスピア劇のせりふ——言葉は行動する」の一節をご紹介して終わりたい。ここでは、福田がシェイクスピア及びその翻訳についてどのように考えていたか、その一端を窺い知ることができる。

大事な事は先に述べた様に寝そべつてゐる様な日本語を起上がらせ、シェイクスピアの躍動的なせりふの力をどうしたら生かせるかといふ事である。(略)私が狙つたのはシェイクスピアのせりふに潜む強さ、激しさ、跳躍力、そこから出て來る音聲と意味のリズムである。ハムレットが言つてゐる事を傳へるのではない、ハムレットは今、この時、なぜ、かういふ言葉で、かういふ事を言ふのか、その氣持を傳へなければならない。しかも、一つの行動が他の行動を生む様に、言葉が言葉を生み、喚び起す様に、その必然性が目に見える様に耳に聞こえてこなければならない。さもなければ、ハムレットは言葉の継ぎ穂を失つてしまうだらう。

本公演が福田のねらいを実現できているのかどうかは、会場へ足を運び、是非自分の目で、耳で確かめてみてほしい。僻みはシェイクスピアが好きで、またやりたいという。新進気鋭の若い劇団の今後に期待している。

(2019/7執筆)

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