Review

ハムレット

音楽にのまれていた

村上はな氏

そもそも、今回のクロスレビューをやることになった時、いま何か気になっている公演はありますかと訊かれ、この作品を提案したのは私だった。理由は、しあわせ学級崩壊の前回公演『卒業制作』を観て、それがおもしろく、かなり印象に残っていたからだった。それもあり、今回の公演を観るにあたって、私の期待度はかなり高かったと思うのだが、もう一つ、私の期待度を上げている要因があった。

それは、今回の公演ではシェイクスピアの作品をやるということだった。

もともとしあわせ学級崩壊の公演は、主宰の僻みひなたが、自身の作ったEDMを生演奏する中で上演が行われていく。セリフもそれにのせてラップ調にやり取りされていくのだが、それでシェイクスピアをやる。シェイクスピアの本といえば弱強五歩格と呼ばれる韻文で書かれていることは有名だが、私にはその韻文としあわせ学級崩壊のEDMやラップ調のセリフ回しが合うのではないかと思え、二つのリズムがどのように作用しあっていくのか、非常に興味が湧いたのだった。

だが今回の公演の話に入る前に、私がいたく感動した前回公演の話からしたいと思う。

前回公演『卒業制作』はおもしろかった。そして何よりとても印象に残っている。

まず劇場に入った段階で異様な雰囲気を感じる。全面黒の劇場内はクラブのようにところどころピンクや青っぽい照明で照らされて薄暗く光っていた。そして観客の目の前には格子状に金網が天井まで張られており、観客のいるスペース(私が観た回はスタンディング上演の回だったので、座席はなく、スペースが区切られているだけだった。)と役者たちのいるスペースを完全に隔て、行き来できないようになっていた。それはさながら、動物園などの檻のようだった。そしてそれらの光景は、劇場内を「得体のしれない地下室」のように錯覚させた。

本編が始まると、鳴らされるEDMに半強制的に心拍数が上がる。その中で叫ぶように訴えるように発されるセリフは音楽との相乗効果を生み、苦しくなるほど私の情緒を駆り立てた。それはこの作品のテーマの一つでもあった「清算できないもの」と向き合おうとする登場人物たちの切実さとどうにもならなさが、音楽にのることでセリフがセリフとしてだけでなく詩としても存在し、セリフだけである時よりも叙情的に感じられたからだと思う。

そんなふうに心を揺さぶられた公演は久しぶりだったので、ずいぶん感動した。あの日の帰り道の私は相当ハイテンションだったと思う。

このような経緯があって私は今回の公演をレビューに提案した。それ故に、最初にも書いたが、私は今回かなり期待していた。あの、しあわせ学級崩壊の新作だ、と。しかもハムレットだ、と。それだけでもリズミカルで叙情的なシェイクスピアのセリフがEDMにのり、あの叫ぶようで訴えるような発声のされ方をしたら、どんな嵐が起きるのだろう、と。

しかし、期待通りにはならなかった。

確かに、リズミカルなシェイクスピアのセリフ(原作とは変わっている部分もあったが、全体の雰囲気やセリフのリズム感など、シェイクスピア「らしさ」みたいなものは損なわれていなかったと私は感じた。)はEDMにもよくのっていたし、役者たちの発するセリフはそれぞれの思惑を含み、とても叙情的だった。にもかかわらず、私は観ている間、なんだかしらけてしまったのだ。

やっていることは前回とそんなに変わらないのに、なぜそんなにしらけてしまったのか最初は自分でも不思議だった。だが考えていくうちにいくつか思い当ったことがある。

まずは場所だ。前回の場所は地下にある劇場だった。が、クラブのような照明と張られた金網によって場所の特色に矛盾が生まれ、「得体のしれない地下室」になっていた。それに対して今回は、ライブハウス(三か所をまわる公演だったのでライブハウス以外の場所の回もあったが、私が観た回はライブハウスでの回だった。)での上演だった。ライブハウスだと、地下にあっても、薄暗い照明や、EDMが生演奏されることなどに特に違和感がない。場所の特色の矛盾が起こらないために、「得体のしれない」感じやそれに伴う不気味さ、不安などがない。言ってみれば、安心して観ることができてしまったのだ。そうなると、どんなにEDMがかかっていても、そこまで心拍数が上がらなかった。

次に内容に関してだが、今回の公演では普通に上演すれば二時間以上になるであろうハムレットを一時間にまとめていた。そのまとめ方は素晴らしかったと思う。そしてそれを演じる役者たちもすごかった。今回の公演ではハムレット以外の役をたった三人の役者ですべて演じていたのだが、その切り替えの早さと演じ分けはなかなか簡単にできることではなかったと思う。そして唯一、劇中ずっと一つの役だけを演じ続けたハムレット役も含めて、役者全員の役への没入具合は素晴らしかった。

しかしなぜか私は彼らに感情移入することができなかった。それはこの作品が古典で、言葉遣いが少し難しかったり、状況がイメージしづらいということもあるが、何よりそれぞれの人物の背景やそれに伴う切実さの描き方が今一歩不十分だったのではないかと思う。確かにシェイクスピアの原作でも、それぞれの細かい心情について書かれていない部分はたくさんある。しかし、あえて古典作品をやるのなら、原作に書かれていない部分にこそ上演する人たちの解釈や思いを表現するべきだと思うのだ。それが現代に古典作品を上演する醍醐味ではないのだろうか。そこが足りなかったから、私は今回の上演ではセリフが上滑りしているように感じた。

それに加え、音楽とセリフのリズム感がとてもよくマッチしていたがために、セリフは音楽に溶け込みすぎて、セリフとしての存在感が薄れ、前回私の情緒に訴えかけた詩としての機能がなくなってしまったように感じた。それもセリフの「上滑り感」を助長したのかもしれない。

総じて、今回の公演は「音楽にのまれていた」と私は評価する。場所がもともと音楽に使われる場所で、そのために演劇と融合していることの違和感が薄れ、さらにセリフも音楽の要素が強すぎて本来の機能を発揮しきれなかった。だから私はしらけてしまったのだ。今回の公演は音楽を楽しむためにはよかったかもしれないが、演劇でもあるためにはもう少し、そこにあるドラマや、上演者の解釈、登場人物たちの切実さなども大事にしてほしかったと思う。

最期に、よくない部分はあったとはいえ、このような(音楽にのせるという新しい)上演方法で古典作品が上演されること自体に意義があると思うし、私自身、難しいイメージのあった古典作品に、このスタイルであればかかわりやすくなると感じたので、しあわせ学級崩壊のことは今後も応援していきたいと思っている。

(2019/10執筆)

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