『ハムレット』
とにかく、僕はしあわせ学級崩壊の演劇が好きになれない
伏見瞬氏とにかく、僕はしあわせ学級崩壊の演劇が好きになれない。このことは、まず先に書かなくてはいけない。
今回の『ハムレット』を含め、これまで三回しあわせ学級崩壊を見ている。彼ら・彼女らの劇の特徴は何より音楽と劇がずっと同時進行していることだ。EDMというジャンル名で呼ばれるのが最も近いであろう、反復のビートが強調された打ち込みの音楽。派手なブレイクとはっきりとしたシンセサイザーのメロディが含まれるあたりがまさにEDMといったところだが、しあわせ学級崩壊は音量を可能な限り上げることで暴力的な効果を作り出す。圧、圧、圧。その暴力性を作中のトラウマティックな出来事や登場人物の発する悪意と重ね合わせることで、この世界に存在する痛みを表現する。違和感や軋みを、叫ぶように表現する。しあわせ学級崩壊の基本形だ。
その痛みがあまりに一元的すぎることに、僕は違和感を持つ。複数の登場人物が、一つの共通した痛みを感じ、傷つき、泣き叫ぶ。エモーションの一元化は、物語の引力が強ければ人々を納得させられるかもしれない。しかし、彼らが紡ぐ物語に僕は共感を覚えられず、暴力性が観るものへの暴力として受肉するのみだった。共感の回路のない感情表現は、居心地の悪さだけを増幅させる。僕がしあわせ学級崩壊の演劇が好きになれない理由は、主にこの点にある。
『ハムレット』は音楽スタジオを舞台に、いつも以上の音量での爆音上演となった。僕は既存の戯曲を元に彼らが劇を設定することは、音楽を活かすというコンセプトを明確に反映できる分、プラスに働くと思っていた。その予想は外れた。悲しいことに、音楽が生きていなかったのだ。男性一人、女性三人はマイクを通して発生するのだが、マイクの音が割れていて、耳が痛くなる。その痛みに、優れたノイズミュージックのような美意識は含まれない。他者や美しさへの無頓着が音声から伝わってきて、音を大事に扱っていないことがとても残念に思えた。もう一つ、これは以前から同様の特徴があるのだが、音に対する言葉の乗せ方が平板で、言葉がリズムに混ざることなく浮き上がってしまっている。八拍子に律儀に一拍一音節を乗せているだけでは律動的な快楽は生まれないらしいし、元の戯曲の新たな解釈を感じることもなかった。演者達の大げさな身振りと感情を込めた風の声に、僕は虚しい気持ちを覚えずにはいられなかった。
ここまで好きになれなくて、何故僕は三回も観ているのか。それは彼らの演劇が他の誰にも似ていないからだ。前述したように稚拙に思える点がいくつかあるし、流れる音楽も好みだとは言えない。ただ、彼らと同じ不快感を覚える劇団は他にはない。私はやはりしあわせ学級崩壊を好きにはなれない。だが、嫌いだと言わせる力はある。「無視できなさ」があることは認めなくてはいけないと思う。僕自身は、痛みは簡単に共有できるものではなく、共有できないことの痛みにこそ表現すべきものがあると信じているし、音響やリズムのあり方にも最大限気を使って、言葉を使ったり表現に向かったりするだろう。彼らはそうした価値基準とは別の、自分たちの信じる演劇や表現を続ければいいのだと思う。いつかそのうち、僕の価値観を覆してくれることを、今は少しだけ期待している。
(2019/10執筆)