Review

ハムレット

SNS時代の自然主義

渋革まろん氏

初観劇のしあわせ学級崩壊を、このようなかたちで体験できたのは幸運だった。劇場で観劇していたら、うんざりして席を立っていただろうから。しかし、音楽スタジオ・BASS ON TOPでライブさながらオールスタンディングで観劇する本作の形式が、わたしにある種の冷静な眼差しを宿してくれた。そして、わたしはこの形式をSNS時代の自然主義なのではないかとも思ったのだ。

しあわせ学級崩壊は、僻みひなたが脚本・演出を手がける若い劇団で、2015年に『超現実絶望ぐちゃぐちゃ夢子ちゃん』でもって旗揚げされた。本作は、昨年の『ロミオとジュリエット』に続く、シェイクスピア戯曲を使った上演の第二弾であり、今回も前回と同じように音楽スタジオを使って上演するスタイルが踏襲されている。当然、客席は設営されておらず、上演が始まると、聴衆の気分を高揚させるEDMをDJが爆音で鳴らし始める。すると、フロア三方の壁面と中央に設置された椅子に登って田中健介、福井夏、大田彩寧、林揚羽の四人がマイクを片手に、『ハムレット』のセリフをラップ調で語り出す。

つまるところ、本作は一種のラップミュージカルのようなもので、セリフを発する根拠は不可視の内面に置かれることなく(だから、内面を観客に伝達する術が演技だということにはならず)、音楽の情動にノルことで担保されていく。そこからも容易に察せられると思うが、父親を殺した叔父に復讐しようとしても、様々な逡巡のうちでそれを遂行することができないといった支離滅裂な行動から様々な解釈を呼び寄せてきたハムレットの複雑な陰影は、ハムレットを演じる田中の切羽詰まった激情の荒波のなかへと流され、絞り尽くすようなガナリ声によって押しつぶされていく。

原作の『ハムレット』にあったストーリーの時間軸は、ハムレットとオフィーリアの愛憎関係に焦点を当てて再編成される。特に後半、父・ポローニアスを殺され狂気の言葉を口にするオフィーリアのシーンに、「尼寺へ行け!」とハムレットがオフィーリアを罵倒する一連のセリフが挿入されるために、ハムレットのセリフは、自分に取り憑いたオフィーリアの亡霊を振り払う悲痛な叫び声のように聞こえてくるのだった。

このオフィーリアに「男の暴力において抑圧されてきた女性たち」のメタファーを読むことも不可能ではないが、そう理解するにはあまりにも亡霊オフィーリアの側に主体的な怒りのベクトルが薄く、ハムレットに依存しすぎているように見える。ハムレットにべったりと――身体距離をゼロにして――寄りかかるオフィーリアが示すように、自分の想いを相手が理解できるように伝達する言語的コミュニケーションの水準が欠落し、相手と一体になりたいという――あまりにもベタな――情動的コミュニケーションの水準でふたりはつながりあう。結果的にふたりの愛憎関係は際限なく増幅されていき、外部なきふたりだけのセカイが形成されていく。

注目したいのは、ハムレットとオフィーリア、ふたりの関係に物語の焦点がずらされることで、「父と子」の復讐譚という本来のハムレットの大筋がほとんど希薄になっていることだ。「亡霊」が物語の重要なアクターとして機能していないのだ。

しかし、例えば『ハムレット』に対する様々な解釈のなかでもよく知られている、アーネスト・ジョーンズの精神分析的な解釈に目を向けてみよう。そこでジョーンズは、フロイトの『夢判断』に準じて、ハムレットの複雑な内面が、父を殺し母を寝取りたいという近親相姦の欲望を抑圧するエディプスコンプレックスに由来すると読解する。

つまり、『ハムレット』においては、ハムレットを復讐に駆り立てる父(亡霊)の出現によって子を抑圧する父の規範が可視化され、また同時に母(ガートルード)が叔父(クローディアス)と再婚してしまったことをきっかけに、普段は隠されている「母と寝たい」という欲望が触発される。そうした父の規範と母への欲望の葛藤が、ハムレットの内面を非常に複雑なものにしているという。

先に述べたように、しあわせ学級崩壊版『ハムレット』からは、ハムレットを抑圧する父(亡霊)の存在が、すっぽりと抜け落ちている。そうして父に対する葛藤が弱体化すれば、ハムレットのうちに読み取るべき葛藤=「内面」も曖昧になる。だが一方で、その空虚な内面はEDMが刻むリズムの情動によって代補され、ハムレットの内面はEDMの情動と一体化し、ライブ空間全体へと拡張される。つまり、ここではライブ空間全体がハムレットの脳内空間になるのである。

そして、そこでは観客もまたハムレットの不安や興奮のシグナルを伝播する脳内ニューロンの一部、いわば「ハムレット」の一部になる(ゆえに舞台を客観的に対象化することが目指された対面客席は解体されることになったのだろう)。つまり、観客はEDMが媒介する自他未分化な「繋がりの共同体」への直接的な参加と共感を強制される。ぼくが「うんざり」すると言ったのは、このような上演のありかたである。

ではなぜ、わたしは本作を「冷静に観れた」というのか。それは至極単純な理由だ。直接的な参加を促されるオールスタンディングのライブ形式では、同時に観客の顔がよく見えるようになるからだ。むろん、EDMが鳴り響くこの空間は俳優と観客の壁、個々人を自立させる身体の輪郭が没入的な一体感のうちに融解していく集団トランスを求めている。だがその一方で、興奮を隠さない憧れの眼差しを俳優たちにおくる若い女性、縦ノリで揺れる男性、遠くで微笑ましい笑みを浮かべて見守る女性といった、色とりどりの反応を見せる観客たちが否応なく目に入ることで、没入からの距離が生じる。

舞台と客席の区別は融解しながら分離する。もちろん、こうしたある種の叙事的形式が採用されるとはいえ、そこに観客が思考を働かせるための上演の戦略があるようには思えない。つまり、しあわせ学級崩壊は、こうした観客との関係の創出を、批判的、実験的精神をもとにしてというより、かなり自然にアタリマエのこととして実践しているように見える。

そこでふとわたしは、この上演形式がソーシャルメディアのアナロジーになっているのではないかと思った。父―規範を欠落させ、ハムレットの射精的興奮状態に向けて観客の感情が動員されていく展開、そしてそれを取り巻く匿名的な人々が可視化された環境。この可視化された匿名的な人々の群れとは、Twitterでいうところのタイムラインに表示されるツイート群であり、ハムレットの狂気とは炎上を煽るインフルエンサーの振る舞いとして受け取ることができる。その炎上=祭りに参加する観客たちは、祭りの神輿=ハムレットを担いでクソリプを送り合うのである。

だから、しあわせ学級崩壊の上演は、SNS時代の自然主義―ナチュラリズム―を実演してしまっているのではないだろうか。かつての自然主義者は、例えば「夫婦」のように、対等で自然な関係に見えても、実は非対称的な力関係がそこには働いていると暴き立てた。それは個人の内面を抑圧する社会環境を可視化する方法の発明だった。一方で、しあわせ学級崩壊は、個人の内面が社会を支える根拠にはならないメディア環境のリアル=自然を、ある意味ではかなり敏感に反映/可視化しているのではないか。

とはいえ見方を変えれば、匿名の不安を通じて、自己承認欲求がとめどなく加速していく時代の病(私を見て!)を本作はストレートに反映しているとも言える。一過的な祭りの興奮によって組織される集団トランスで、空虚な内面を埋め合わせるといった身振りを、そのまま肯定するだけでいいのかということは問われて然るべきであり、しあわせ学級崩壊の今後の展開が気になるところでもある。

(2019/10執筆)

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